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勝手にノベライズ

敬愛するまふまふ氏の楽曲を勝手にノベライズさせていただいた作品置き場です。

最終宣告サムネ(タイトルあり)

目次

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プロローグ「コード0202」


「…さん……。……さん……」
 薄暗い病室のベッドの上、少女の声に老人は目を覚ました。
 視界が顔のみで埋まってしまうほどの至近距離から、12・3歳くらいと思われる獣耳の少女が覗く。
 老人は驚いて飛び起き、
(…飛び…起き、れた……? )
 自身が体を起こせたことに、また驚いた。もう永らく寝たきりだった老人だ。
 少女はグレーの外はねショートヘアの毛先を弾ませながら老人と距離をとり、悪戯っぽく笑う。
「これは夢です」
 しかし、すぐに真顔になり、
「でも半分は現実です。
 私は大切なお知らせをするため君の夢の中へ入って来た現実の存在で、いわゆる死神です。
 落ち着いて聞いて下さい」
(死神……? こんな曾孫みたいな歳の女の子が……? もっと怖い感じの存在だと思ってた……。まあ、年長者をつかまえて「君」なんて、かなり生意気ではあるけど……。
 …違うか。逆か。若すぎるから、子供だから、そうなるのか……。
 それで、その「死神」の「大切なお知らせ」って……? )
 子供が生意気に真面目に伝えようとする姿を、微笑ましく見守る老人。
 重々しく切り出す死神少女。
「明日が君の最後の夕食です」
(死ぬってこと? 死神だもんね。やっぱり、それかぁ……)
「君が、多分『この世』かそれに近い呼び方をしているこの世界に強い未練を持っているためと、極端に死というものを恐れているため、そうした場合の決まり事として、事前に『最終宣告』をしに来ました」
(…そう言えば、死ぬ夢って久し振りに見たかも……)
 死ぬ夢というのは夢占い的に古い自分から新たな自分へと生まれ変わることを暗示する良い夢であると、以前、誰かが言っていた。
(100歳過ぎて、しかも寝たきりなのに、そんな意味の夢。さすが俺だなぁー! )
 良い意味の夢であっても、やはり気持ちの良いものではないので、老人は心の中、わざとらしく大声(?)で紛らす。

                  ・
                  ・
                  ・

「ありがとね」
 19時半、胃ろうの処置をしてくれた看護師に礼を言う老人。
 このところ思わしくなかった体調は、昨日今日と何故かすこぶる良い。
 笑顔のおやすみなさいを受け取って、その背中がドアを出て行くのを見送りながら、老人はふと、
(今のが、あの死神の言ってた「最後の夕食」か……)
 昨晩の夢を思い出す。
 そこへ、コンコンコン。ドアがノックされ、
「はい、どう……」
ちゃんとは返事を待たずに開かれたドアから車椅子で入って来たのは、半年振りに会う80年来の友人。
(車椅子……)
 半年振りに会えた嬉しさよりも、車椅子に受けたショックのほうが大きかった。
(半年前は、自分の足で歩きまわってたのに……)
 古くからの知り合いというのは、どうしても、いつまでも変わらないと思い込んでしまっているところがあるもの。普通に考えれば、3つ年上の彼が半年前まで元気に歩きまわれていたことのほうが超人的と驚くべきことのはずなのに。寝たきりの自分も棚に上げて。
 察したらしく友人、入口から老人のベッドの脇へと移動して来つつ、
「町内の運動会で転んじゃってさ」
車椅子になった経緯と、
「それ以来、遠出は家族に手伝ってもらわないと出来なくなっちゃって。だから、お前のとこにも、ずっと来れなかったんだ」
現状を、特に何の感情も込めずに話す。
 昔から変わらない飄々っぷりに、
「運動会っ? 」
 老人はホッとしてツッコんだ。
「何をやってるんですか? この歳になって! ずっとインドア派だったのに、今更、運動会っ? ご家族や町内会の方々も、よく出させましたね! 」
 心の中では、ただひたすら純粋に、すごいなー……しか無い。この彼に対しては、さすがにいつでもではないが、80年を総じてそうだった。
「ちゃんと70歳以上の枠だよ」
「70歳なんて、30以上も年下ですからねっ? 」
 老人は大袈裟に溜息を吐いてみせる。
「僕には、まだあなたのことが、よく分からない……」
 友人は笑って流し、
「まあ、どこまでいってもミステリアスってことで」
「ミステリアス……。良く言えば、ね」
「それよりさ」
 言いながら、友人は入口のほうへ移動。その横の電気のスイッチへと手を伸ばし、消した。
(っ? )
 いきなりの友人の行動に驚く老人。
 友人は、今度は窓辺へ移動。勢いよくカーテンを開ける。
「これを見せたくって」
 窓の向こうには、満天の星。
(…すごい……! いつかのライブ会場で2人で見たのにそっくりな……)
「…すごい景色だ……! 」
 感嘆する老人に、
「サイコ―、でしょ」
 友人は得意げ満足げ。
「もしかしたら、あの時の星々が、本物のお星様になって照らしてくれてるのかもね。年数の経過的に……」
(…いや……)
 詩のような趣を持たせて上手いこと言ったつもりなのか? 老人は反応に困る。
(それはさすがに……。他の誰も聞いていないとは言え、反応しづらい……)

 暫し無言で星空を眺める2人。
 ややして、
「あのさ」
 友人が口を開く。
 そこへ、室内のスピーカーから面会時間終了を知らせる構内放送が流れた。
 友人は、
「あー……」
 スピーカーを仰ぎ、
「いいや次で……」 
                  
                  ・
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                  ・

「お迎えにあがりました」
 面会時間の終了を受けて帰った友人と、ほぼ入れ替わり、閉まった状態のドアを通り抜けて、死神少女が入って来た。
(昨日の夢の続き……? )
「抗わないで下さいね」
 少女は、自身の身長ほどの長さのある細めの柄の先端に大きめ独特な形状をした刃を柄込まれた赤色の鎌を振り被る。
(っ! )
 恐怖のため以前に思うよう動けない体を、必死で動かしベッドから落ちる形で脱出。床を這い逃げる老人。
 少女は体の向きを老人の正面へ変え、鎌を振り被りなおした。
 ギュッと目を閉じ老人は身を固くする。
 様々な思いが脳裏を駆け巡った。
 様々? 否、端的には、ただひとつ。
(死にたくない! )
 寝たきりになって、時間だけはたっぷりあって……。元来の好奇心旺盛な性格。やりたいことが、時を経る毎に溜まっていった。
 幸い明日も安全に生きることが出来る環境。未知に溢れた世の中を堪能したい。
(…100年も生きておいて、って笑われるかも知れないし、贅沢だって怒られるかも知れないけど……。
 …足りない……! 短すぎるよ……!
 あと、単純に怖い……っ! …それに……)
 急に静まる脳内。浮かぶ友人の顔。
(…何を、言おうとしてたのかな……)
 プツッ……。
 細い糸が切れるような音? 感触? 
 恐る恐る、老人は目を開けた。
 視線を少し上へ向けると、ベッドの上、静かに目を閉じ横たわる自分。その自分との間の床に少女の鎌の刃の先端が刺さり、そこを中点に、糸が、自分と、ベッドの上のもう1人の自分を張りつめ繋いでいる。
「はい、完了」
 少女が鎌を床から抜くと、2分された糸がフワッと各々の側へ舞い、消えた。
(…斬られるのかと思った……)
 拍子抜けし脱力する老人。
「さあ、行きましょう」
 ベッドのほうでなく意識の在り処のほうの老人に掛けた少女の言葉に、
(…どこに……? )
 老人は無言の問い。
「俗に言う『あの世』です。
 隙をついて逃げようなんて思わずに、ちゃんと一緒に来て下さいね。私から逃げきっても生き返れるワケではないし、ろくなことにならないので」

                  ・
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「マフマフ! マフマフ! 起きて下さいっ! 」
 麗らかな物界(ぶっかい)の昼下がり、空中にあぐらを掻いてフワフワ浮遊し居眠りをしていた、心界(しんかい)役場住民課より特殊案内員業務を委託されている民間企業「死神魂卍(しにがみだましい)」に勤める、獣耳少年のなりをした特殊案内員・コード0202、通称マフマフは、距離はあるが尋常でない少女の叫び声に目を覚まし、
(…しまった……。ちょっと休憩のつもりが寝ちゃってた……)
 当然ながら作り物である、相手の恐怖心や警戒心を和らげる目的で会社が着用を定めている獣耳の、ズレを直す。
 物界とは、肉体を持つ者の暮らす世界。心界とは、肉体の死を迎え、その中身である心体(しんたい)のみの存在となった者の暮らす世界だ。
(懐かしい夢だったな……)
 夢、と言っても、今から2年くらい前、肉体を持って物界で生活していた最後の日の、現実の出来事。
(「死神」を名乗ってイロハさんが来て……。夢だと思い込んでいたら、本当に死んで……。肉体の死だけど……)
 夢の中の死神少女・コード0168、通称イロハ。マフマフの現在の職場の大先輩で、元・指導係。
 死神魂卍への入社と同時に貸与されるコード番号は、もともとは0001から始まる通し番号だったのだが、主に転生を理由とする退職で欠番が多く出始めたため、新しい番号も増やしつつ、使われなくなった番号を新人へ与えるようになったので、入社時期が約50年も違うマフマフとイロハが34しか違わなかったり、イロハより少し入社が遅いだけの、やはりマフマフから見れば大先輩であるイロハの妹分、現在は事務方に徹しているが現場に出ていた頃の功績により退職後には永久欠番になると噂される在職中でありながらのレジェンド・通称名テトのコードが1010と大きめの数字であったりする。
「マフマフ! 後ろっ! 」
 ほとんど悲鳴でしかない、再びの少女の声。
 ハッとするマフマフ。
 声の主はイロハ。50メートルほど離れた正面で、自身を阻む全身に薄っすらと黒い煙状のものを纏った人物を鎌を振るって払い、宙をマフマフのほうへ駆けて来るところだった。
(中間域っ? )
 中間域(ちゅうかんいき)とは、肉体の死を迎えてなお物界に残り続けている心体の総称。
 イロハを追って来る中間域。
(イロハさんっ! )
 急いで立ち上がり、イロハのもとへと向かおうとしたマフマフだったが、背後からただならぬ気配。
 頭だけで振り返って見れば、
(っ! )
 形の定まらない巨大な黒雲のようなモヤモヤが迫り、無数の手を伸ばしている。
 中間域が何体も集合、合体した姿だ。
 マフマフは全身で振り向きざま、イロハの物と同じ赤い鎌で薙ぎ払った。
 雲散霧消。麗らかな空が戻る。
(…なんか、最近多くない……? )
「マフマフ! 」
 イロハのほうも自分を追って来ていた中間域を完全に退散させ、マフマフのもとへ。
「よかった、無事で……」
ホッと息を漏らした。
 中間域を払って駆けて来る凛々しい姿から一転、柔らかく力の抜けた女の子らしいイロハに、マフマフはドキッ。
 しかし、
(いや、騙されるな。ロリババアだ。実年齢は分からないけど、16歳未満は仕事に就けないはずだから、若くても16+50年で66歳以上のはず)
すぐに、イロハに気づかれない程度に小さく息を吸って吐いて、気持ちを落ち着かせる。
(…まあ、俺もショタジジイなんだけど……)
 そう、マフマフは未だ、夢で見ていた老人だった人生の続きを生きている。
 かつて肉体を持って物界で暮らしていた人生の続き。
 マフマフだけでなくイロハを始め心界で暮らす全ての者も、そして中間域もそうだ。
 現在の人生が本当に終わるのは、いつか、現在の記憶を持たずに新しい肉体と共に物界へ転生した時。但し、転生には心界で一定期間を過ごすことが必須条件となっているため、中間域については転生はせず、何らかのアクシデント等で消滅でもしない限り、人生に終わりが無い。
 外見が若いのは、心体とはそういうものであるから。肉体の問題は肉体の問題でしかないため、肉体の死を迎え肉体から離れた瞬間に、もはやそれが本来の姿とも言える、その者が最も機敏に動けた時代の姿に、心体が形成される。また、障害等も肉体の問題であるため先天・後天問わず健常者のそれと同程度のものとなるのだ。
「物界で居眠りなんてしたら危ないですよ。
 中間域には私たち『死神さん』を恨んでいる人も少なくないですからね。……完全に逆恨みですけど。でも、それが現実なので、自分たちに非が無くても気をつけなければダメなんです」
 イロハの説教を、マフマフは軽く流し気味、
(…逆恨み……。ほんと、そうなんだよね……)
 因みに「死神さん」というのは死神魂卍社員のうち特殊案内員の、一般からの呼称。ダ○キンで働く人をダ○キンさんとか佐○急便のドライバーさんを佐○さんとか呼ぶのと同じだ。
(肉体の死後のことなんて肉体のあるうちや失った直後に知ってるワケ無いから、中間域になってしまってから知って、俺たち死神さんの仕事なんかも知って、それで逆恨みする。どうして助けて……ちゃんと心界へ連れて行ってくれなかったんだ、って)
 死神さんの仕事は大きく分けて3つ。心界役場所属の案内員のリストに記載のある中で彼らの手に余ると予想される心体を迎えに行くことと、心界物界間の交通手段の無くなる20時以降から翌6時までのお迎え、リストには載らない自死の瞬間を足で探して押さえ心体を保護し心界へ連れて行くこと。
(助けれるもんなら、もちろん助けたいけど……。だって、その分ポイントつくし……。
 …でもさ……)
 3つ目に関しては発見出来た者しか助けることが出来ず、1つ目は心界へ向かう途中で物界への強い未練や死への恐怖から逃げ出す者が少なからずいる。2つ目のケースも1つ目と条件が被れば同じこと。そして、交通手段の無くなる時間帯では移動に時間がかかることから中間域の妨害を受けやすく、その時間帯になってしまえば1つ目・3つ目の難易度が更に上がる。
(そもそも難しいから正規の案内員じゃなくて俺たちの仕事なんだよ。
 少しでも難易度を下げるためのきまりで、1つ目と、1つ目と条件の被る2つ目のケースは必ず事前に最終宣告をするし、いざ連れて行く段階になってから注意喚起もするけど、最終宣告は多分、皆、夢だと思うんだよね……。俺もそうだったから分かる。
 ほんと無意味。やめればいいのに最終宣告。時間がもったいない……)
 マフマフは溜息。
「マフマフ、疲れてるんじゃないですか? 」
 イロハが心配げに顔を覗く。
「マフマフが義体を欲しくてポイントを貯めてるのは知ってますけど、10万ポイントはなかなか大変だと思いますよ? 
 もっと、ゆっくりやったらいいと思います。キャリア50年の私でも、頑張っても年間累計400ポイントくらいですから、50年でも2万までいってるかどうか……」
 そこまでで一旦言葉を切り、自嘲的に笑いながら、
「今の手持ちは、先週カップ麺100個と引き換えたばかりなので、5ポイントしか無いですけどね。……私は、ある程度貯まる毎に、ちょこちょこ引き換えてしまうので」
 その様子にマフマフ、
(…こういう笑い方するってことは、前に俺の言ったこと、少しは分かってくれたのかな……? )
 イロハはポイントを食料品・日用品と引き換えることで生活をしている。リョーピンというラジオパーソナリティを推しており、給料はそちらに全振りしているためだ。
(俺には、申し訳ないけど、ちょっとそういう気持ちって分からないけど……。
 とりあえず、入社数ヵ月の後輩にご飯を食べさせてもらうなんてことにならない程度に止めておいたほうがいいとは思うから、さすがにその時は、「リョーピンさんだって、そんなの望んでないと思いますよ」って後輩なのに生意気って思われそうだけど厳しめに言わせてもらって……。
 その後、イベントに参戦したお土産のせんべいをくれたから、これはどっちかな? って思ってたんだよね……)
 マフマフやイロハの勤め先・死神魂卍では、給料とは別に、心体を1人連れ帰る毎に「魂getポイント」がもらえ、10ポイント単位で景品と交換可能。
 主な景品としては、
・10ポイント………「ゆめはなび」(選べる食料品・日用品1万円相当分カタログギフト)
・30ポイント………「朧月」(老舗料亭)御食事券
・50ポイント………「Super Nuko World」(人気テーマパーク)1泊付フリーパスペアチケット
・100ポイント ……「呼方温泉(心界最古の名湯)暗い微睡亭おこもり旅」2泊5食付ペア宿泊券
・500ポイント ……クロニクル社「ウォーターカラーギャラクシー55インチ」(高画質テレビ)
・1000ポイント……豪華客船「アステリズム号」で行く心界横断52日間の旅
・5000ポイント……セカイシック社「Boys and Girls」(高級腕時計)
・1万ポイント……ハンドレッドゴースト社「nocturnal」(高級スポーツカー)
・5万ポイント……栞工務店の手掛けるフルオーダー戸建住宅※全込5000万円以内
・10万ポイント……JIGSAW社「パズル」(高性能カスタムメイド義体)
 心体によって獲得ポイントは違い、最大3ポイント。若い心体ほどポイントは高く、30歳未満であれば、それだけで2ポイントは確実だ。
「今のところ何ポイント貯まってるんですか? 」
 ある程度貯まってくると下1桁くらいは分からなくなってきてしまいそうなものだが、イロハの問いに、
「今日の午前中の分までで798ポイントです」
 即答出来てしまうマフマフ。それほど必死に貯めている。
「798っ? まだ半年なのにっ? 」
 見てて忙しくしてるとは思ってましたけど、そこまでっ? 何をどうしたら、そんなペースで出来るんですかっ? 」
 と、イロハ、会社から支給された時計の機能も持つ手首装着型通信端末が目に留まった様子で、「あっ」となる。
「リョーピンさんのラジオ始まっちゃうので、私、帰りますねっ! 」
 心界と物界を繋ぐ電車の駅方向へと向かうイロハの背中を見送ってから、マフマフも時間を見、
(俺も、そろそろ次の現場で待機しておくか)
 予め近くまで移動しておいたので、現場はすぐそこ。
 向かいながら、今日の残りの予定を頭の中で確認する。
(今からのお迎えと、その後、最終宣告を2件。最後、23時50分に、もう1件お迎え。
 宣告2件と最後のお迎えが、少し場所が離れてるから、時間に気をつけないと……)

第1話「前触れもなく消えた」


 心界物界間の移動用のほうではなく物界の人たちが物界内を移動するため日常的に利用するほうの駅のひとつ南西塔駅は、朝の通勤ラッシュを迎えていた。
 3番線ホームを、今から2分40秒後に事故現場となる線路の斜め上の空中、ホームの屋根と同じくらいの高さから見下ろすマフマフ。
 田原七海(たばる ななみ)という32歳の女性のお迎え待機中だ。「たはら」ではなく「たばる」と読むので間違いないと、会社支給の通信端末に送られてきたデータの振り仮名を見てすぐに事務所に確認しておいた。
 純粋に心界物界間の交通手段の無い時間であるという理由で回されてきたケースでは、正規の案内員と同じく書類を用いて時間をかけてゆっくり本人確認を行いながら肉体と心体を繋ぐ緒が自然に切れるのを鎌は使用せず待つのだが、他のケースでは、そのような悠長なことをしていては中間域が集まって来てしまい危険なため、事前に名前を正確に把握し名を呼んだ際の反応で本人確認に代え、鎌で速やかに切っている。
 まだ肉体の死を迎えない人を間違って連れて行くことは物理的に有り得ないのだが、連れて行くべき心体を置き去りにしてしまうことを防ぐため。
 実際に昔、お迎えするはずの心体になりすました中間域を間違って途中まで連れて行ってしまうという事案が発生したらしい。
 途中までなのは、中間域が、心界や、車体が物界にある時であっても心界物界を繋ぐ電車内へは入れないためだ。
 それだけ聞くと大したことのないように聞こえるが、そうしている間に、置き去りにされていた心体が中間域に堕ちてしまったので、大問題となった。
 案内員の到着前に心体の緒が切れたために起こった事で、以降、肉体の死亡時刻前に現場で待機することと本人確認が徹底されるようになったのだ。
(緒が繋がってれば間違えようがないんだから、徹底するのは待機だけで充分のはずなんだけど……。ほんと、無駄の多い仕事だよな……。
 決まりだし、後で何かあった時に不備を指摘されて責任を押しつけられると嫌だから仕方なく、さっきも名字の読みの確認なんてして……。
 大体、社名からして頭悪そうなんだよね。何だよ、卍って……)

 田原の肉体の死の瞬間まで、あと1分を切った。
(…ちゃんと昨日、最終宣告をしたけど、きっと夢だと思ってて、何なら憶えてすらなくて、結局、前触れも無く消えるのと同じなんだろうな……。
 本当のところは消えるわけじゃないけど、物界の人たちからは見えなくなっちゃうし、一旦は、物界から去るし……)
 即死の事故の場合や突然死の中でも特に急な場合のお迎え時には、いつも、そんなことを思う。
 快速列車が3番線を通過するため黄色い線の内側へさがるようアナウンスが流れた。
 それを受け、ピンヒールの不安定な足で半歩さがる田原。
 列車の先頭がホームの端に差し掛かる。
 瞬間、ドンッ!
 後ろを通り過ぎた若い男性の大きな荷物が背中にぶつかり、田原はヨロけて線路へ。
 列車前面に掠ったか掠ってないかのタイミング。
 悲鳴のように高く軋み響くブレーキ音。
 車体の下へと呑み込まれていく田原の体。
 騒然となるホーム。
 マフマフは、完全に停止した列車の脇へ降り立ち、車体の下を覗く。
 ブチャブチャに潰れ千切れて広範囲に散らばった肉体。それでもある程度集中している辺りの上に、田原の心体は仰向けに寝た姿勢で微動だにせず浮いていた。目は見開き、呆然と。
 現在が肉体のピークだったのか、その姿は崩れる前の肉体と変わらない。
 このままでは、やりづらいので、マフマフは腕を伸ばし、田原の心体を車体の下から引っ張り出した。
 田原は呆然とした状態から復活。ホームを背中側に起き上ってペタンコ座りの姿勢になり、マフマフをジッと見る。
「昨日の夢に出て来た子……? 」
(あ、憶えてたんだ……。でも、やっぱ夢だと思ってたか……)
「…私が、こうなること……知ってた、のよね……? 」
 暗く低く掠れた声。
(そりゃ、まあ……。詳細は分からないけど、場所と死因で想像はつくし……)
 直後、
(っ! )
 田原は両腕を伸ばし、マフマフの首をガッと絞めつつ引き寄せ、
「いつから、そこにいたのっ? 黙って見てたのっ? どうして助けてくれなかったのっ? 」
 至近距離から睨んできた。
(…そう、言われても……)
 似たような反応をする事故死の人は少なくないため、マフマフは慣れっこ。
 これもパターンだが、それでもまだ、わらわらと周囲に集まり始めている中間域のほうが気になる。
(…あまり多く集まられると厄介だから、さっさと……)
 そこまでで、マフマフはふと気づいた。
(…なんか、中間域の集まり方が異常じゃない……? )
 いつもと、だいぶ様子が違う。
 合体するまでには至っていないが、この短時間に、田原の左右と背後の半径2メートルくらいの範囲が、ギッチリ埋め尽くされてしまっている。
 こんな経験は、したことが無い。田原に、中間域を惹きつける特別な何かでもあるのだろうか? 
(この状況で緒を切ったりしたら、確実に持ってかれるよね……。どっちみち、自然に切れるまでもあまり余裕が無さそうだけど……)
 マフマフは困るが、とにかく何とかするしかない。
(緒が切れるまでに説明して、ちゃんとこの人自身の意志で中間域から逃げて心界へ行こうって思ってもらうことが出来れば……)
 と、不意に田原の手が緩んだ。
(……? )
 田原は小さく息を吐きつつ穏やかな調子で、
「ごめんね……。まだ死にたくなかったから、頭に血がのぼっちゃって……。怒る相手を間違えたわ……。ボクじゃないわよね……。
 ボクは、多分仕事なのかな? 大変な仕事ね……」
 マフマフから手を放し俯く。
(……うん、肉体の死を迎えたことを気持ち的に受け容れられないのは仕方ない……って言うか当たり前だと思う。特に現時点のこの人じゃ、死んだのは肉体だけで人生自体はまだまだ続いてくって知らないだろうから余計に……。
 気持ち的に受け容れられなくても自覚してるのが、むしろすごいんじゃないかな。俺もそうだったけど、見ていて大抵の人は、抜け殻になった自分の肉体を目にして自覚するように思うから……。あの肉体の状態じゃ、誰かなんて分からないのに……。以前、同じように肉体の損傷が激しい人の時には、自覚してもらうところからだったし……)
「怒る相手は……」
 俯いたまま言いながら、田原はピンヒールの踵に人指し指の先を引っ掛け、両足同時に静かに脱ぎ、手に持って、
「アイツよねっ! 」
いきなりの大声。勢いよく立ち上がり回れ右。
(っ? )
 驚くマフマフ。
 田原を囲んでいた中間域たちもビクンとなり、駆け出した彼女に条件反射的に道を空けた。
 ホームの縁に靴を持った手をつき、ヒラリと上がる田原。
 田原の突然の動きに面食らってしまっていたようだった中間域たちが、見た目にハッキリと我に返り、その背中を追う。
 追いついて、
「姉ちゃん、アイツをやるのかっ? 」
「いいねえっ! 」
「オレらも加勢するぜっ! いや実は応援しか出来ねえけどよっ! 」
「フレー! フレー! ネ・エ・ちゃんっ! 」
「頑張れ! 頑張れ! ネ・エ・ちゃんっ! 」
 ホーム上を横並びになって一緒に走りながら声を掛け、中間域たちは大盛り上がり。
 田原は右手の靴を高々と突き上げ、
「ありがとうっ! 」
 そうして、恐らくは事故前に田原にぶつかった大きな荷物の男性へと向かって、更に走るスピードを上げた。
 マフマフは、
「ちょ、ちょっとっ! 」
 焦って追いかける。
 ホームに手をつけた=触れられたということは、まだ心体として安定していないか、早くも安定したが思い込みの為せる業で出来た。心体として安定するまでは一般的に半日ほどかかるとされているため、前者だろう。肉体から離れて時間が経過し心体として安定すると、通常、物界の人や物質に触れられなくなり、触れられるようになるためには訓練が必要となる。
 触れられるようになるための訓練の主たる内容はイメージトレーニング。要は思い込み。物界の人はもちろん物質の中にも人で言うところの心体のようなものがあるので、それに触れるイメージを持つのだ。
 心体では物界の重力に影響を受けないため、今、目の前の心体として安定しているであろう中間域たちが、線路内やホーム上の総称して地面と呼べる場所を走れているのは、そのため。地面なのだから立って走れて当然との思い込みの為せる業。幸い、人には触れられないという思い込みをしているようだが……。
 しかし田原は違う。普通に触れられる。つまり危害を加えれる。
 そんなことをすれば、心界へ行けなくなってしまう。
(止めなきゃ……! )
 必死で走り、グングン迫っていくマフマフ。
 あと少しで追いつけるというところで、思った。
(……これって、いけるんじゃない? )
 中間域の運動能力には当然個人差があるので、田原の走りについて行けず後れている者もいるが、基本横並びで田原の後ろを塞いでいる者はおらず、前へ向かって、全員がそこそこのスピードで走っている。中間域たちに、田原にも気づかれないくらい小さめのモーションで緒を切って、すぐに田原を連れて真逆の方向へ走れば、捕まらず逃げれるのでは、と。

 追いついた。
 何度も脳内でシミュレーションしてみて、
(うん、大丈夫! )
 実行に移す。
 今一度、確実に手の届く距離であることを確認。
 普段、緒を切る時には鎌を振り被るが、特にそうしなければならないわけではないため、前を行く一団の視界の端にさえかからないよう、ごく低い位置から。
 肉体の散らばっている辺りから動き続ける田原の心体へと長く長く繋がっている緒は、言うまでもなく揺れて定まらない。
 注意深く狙い澄まして……プツッ……。
 切ることに成功した。
 ホッとしている間は無い。
 即座に田原の襟首へ手を伸ばす。
 だが、
(っ? )
 田原が突然ジャンプしたために空振り。
 そのために開けた視界に、件の大きな荷物の男性。今まさに田原の飛び蹴りが当たろうというところ。
 マフマフは咄嗟に右足を1歩、大きく踏み込んで、田原のウエストに腕を巻きつけざま左足に体重をシフト。踵を返した。
「何するのっ? 邪魔すんじゃないわよっ! 」
 怒鳴り暴れる田原を無視。ホームをこれまでの真逆方向。
(危なかったー……。…よかった、間に合って……)
 田原がまだ物界の物質を通り抜けれないため、屋根がなくなるところまで走り、宙へ。触れられるということは裏を返せばそういうことなので。



 宙を、田原を抱えたまま心界物界を繋ぐ電車の駅へ向かうマフマフ。
 追って来る中間域。
 暴れ続ける田原を抱えているマフマフのスピードは遅い。
 後ろを気にしチラリと見れば、中間域は、もう、すぐそこ。
(追いつかれる! )
 時折、中間域たちの手が掠める。
 と、その手を遮り、よく知るグレーの外はねショートヘアの華奢な背中が突如割り込んで、鎌をフルスイング。中間域を風圧で巻き込むようにして、まとめて遥か彼方へかっ飛ばした。
(…イロハさん……! )
 いっきに脱力するマフマフ。
 手を目の上の位置でかざすポーズで、既に見えなくなっている中間域たちを見送ってから、イロハはマフマフを振り返る。
「ありがとうございます! 」
 礼を言うマフマフに、イロハ、どういたしましてっ、と笑顔で返した後、変わらず暴れている田原に目をやり、
「仕事、ちょっとは選んだほうがいいかも知れないですよ? 
 まあ、蓋を開けてみなきゃ分からない場合がほとんどですけど」
(…うん、俺も、これはいくら何でも、知ってたら避けてた……)

第2話「ターゲット1井上乃絵瑠」

  
(朝は天気よかったのにな……。風も出てきたし、ひと雨くる……? )
 田原を心界役場の担当案内員に無事引き渡し、すぐにまた物界へと戻ったマフマフは、なま温かく湿った風の吹く住宅街で、重めの雲に覆われた空を見上げる。
 平日の正午。仕事や学校へ出掛けている人がほとんどなのだろう、とても静かだ。
 そういう場所へ、と選んで来ていた。
 目的は、自死しようとしている人を見つけること。
 通信端末に毎月1日に配信される社内報「死神新聞」内で唯一随時更新される掲示板。そこに、自身は別件があるため対応できない社員からの、自死しそうな人を見掛けた旨の情報が、その時刻・場所等の詳細と共に流れてくる。
 今月のトップ記事にもあったが、幾つかの要因で近頃は自死が非常に多いため、情報も多い。
 しかし残念ながら、マフマフには活かしきれない。瞬間移動が出来ないので、場所が遠いと空き時間の間に行って戻って来れないためだ。
 同じ理由で、予定を詰め込もうとしても駅周辺の地域の仕事に限定されるため空き時間が出来てしまう。今も空き時間だ。
 この住宅街を選んだのは、掲示板に都合よく近場の情報が無かったため、これまでの傾向から人けの無い場所でも海や山より1人きりの自宅だろう、と。
(…瞬間移動、早く習得しないと……)
 しかも、他の人を連れて移動出来るタイプの習得が必要。
 以前イロハに質問し、
「ポーンッ! て感じです」
と返されたことを思い出す。
(ポーンッ! て感じって、どういう感じなんだろ……? )
 思い出しついでに今一度、考えてみようとするが、
(…やめとこ……)
 時間の無駄なのでやめた、その時、パサッ……。
 擦れ違ったキチッとした身なりをした30代前半くらいの長身の紳士が、ハガキ大に無理に折り畳まれ分厚くなった灰色っぽい紙を落として行った。
 何の気なく拾い振り返って、1歩、踏み出したマフマフだったが、
(…俺のこと、見えないだろうし……)
 足を止める。
 けれどもすぐに、
(…あれ……? )
 気付いて、手にしている、その紙を見つめた。
(特に意識を集中しなくても持ててるってことは、これ、心界の物なのか……。
 じゃあ、これを落としたあの人は、心体? 足音させて歩いてたし、見た目にも、肉体あるように見えたんだけど……)
 それならと、声を掛けようと顔をあげる。
 が、既に紳士の姿は無かった。
 紙を開いてみると、新聞。
(今でも紙の新聞なんてあるんだ……)
 と、日付が目に留まる。2020年8月1日(土曜日)。
(…74年も前……っ? )
 心界の全ての物は、その物の最も良い状態で存在し続ける。つまり古くならない。小さく畳んでいたための折り目も開けば無くなるような一切傷まない代物なので、存在していることに驚いたのではない。そのような物に出会えたことに驚いていた。
 そして新聞の名称を見て、
(…死神新聞……っ? 昔の社内報だ、これ……っ! しかも日刊っ? こんなの毎日出してたの……っ? )
更に驚き興味をそそられて、その場で読み始める。
 突然、
(っ! )
 高齢女性の自転車が体を通過した。
 思わず夢中になってしまい、接近に気づけなかったのだ。
 ダメージどころか感触すら無くとも、あまり気持ちのよいものではない上に、もし今のが悪意を持った中間域だったら危険であったと、周囲が見えなくなってしまっていたことを軽く反省。
 時間はあるし、気になったままでは集中力を欠いてしまうため読んでしまおうと、落ち着けそうな場所を求めてキョロキョロ。落ち着けるということは、接近する気配等に気づきやすくもなるということなので。
(あ、あそこの屋上なら……)
 わりと近くに学校っぽい4階建ての建物を見つけ、向かう。
 人通りのことだけを考えれば空中でよいのだが、人は通らなくても移動目的の鳥や虫がそこそこのスピードで通行していたりするから。



(…人間界……? )
 建物の屋上の手摺の上に陣取り、あらためて社内報へと視線を落として、マフマフは首を傾げる。
(…あ、物界のことか……。心体のことは魂って言ってた……? 「魂getポイント」の語源かな……? )
 言葉って変わるんだな、と思った。昔と言っても、たった74年前なのに、と。
(…だって俺、その頃もう生まれてたよ。…生まれてたって言うか、大人だった……。
 あと心体=魂とすると、1人週当たり平均10個ってすごいことのように書かれてるけど、わりと少なめだよね? 頑張った時のイロハさんくらい……。
 …でも……。…74年前、か……)
 心に何かがひっかかり、自分は何をしていたかな、と振り返る。
(……思い出した。あの年だ……)
 新たな感染症が世界的に流行した年。
(…そのせいで……。結構キツかったの、憶えてる……)
 自分は感染しなかったが、影響は受けた。
 歴史と言ってしまえば大袈裟。しかし時の流れてゆく中で出来事は繰り返され人は翻弄されて……。収束まで2年以上を要した、この時以降、70年もの間には、やはり何度も感染症は発生したし、世界的に拡がったこともあった。
(だけど、やっぱ、この時が一番辛かったな……。若い時間は濃いから……。
 今も多分、同年代の他の人たちと比較して、俺は濃い時間を過ごしてるジジイなんだろうけど、それでも、この時の自分と比べたら、かなりゆったりと時間を過ごせるようになったよね……。だってきっと昔の自分じゃ、こんな空き時間、気が狂ってる……)
 ひとくさり、成長したなあ……と、しみじみ。それから、
(……繰り返すって言えば、社内報の内容もそうか。
 この74年前の1面の「空前の自殺ブーム」って、見出しは違うけど、書いてあることは、今月のトップ記事とほぼ同じだし……。心界への移動に舟なんて使わないけど……。危なくなかったのかな? あんな、今じゃ立入禁止区域になってるレベルの中間域だらけの河を舟なんかで渡って……)
 そうして回想から現実へと立ち返ったタイミングで、カチャッ。
 近くに、それまで無かった音を聞き取り、そちらを見ると、建物内部に通じていると思われるドアから、1人の少女が出て来るところだった。
 印象どおり、この建物は学校だったようで、少女はセーラー服姿。高校生だろうか? 
(時間的に昼休みかな……)
 手摺の前に佇み、思い詰めた表情で手摺の向こうを見下ろす少女。
 その様子を、
(……何? )
少女からは自分の姿は見えていないはずだが、社内報でカモフラージュしてチラ見するマフマフ。
(死ぬの? 今? ここで? )
 ここに来たのは74年前の社内報を読むため。自死しようとしている人を見つける目的からは一旦外れて。完全な棚牡丹。
(「魂」getのチャンス! )
 ドキドキしてきた。
(飛び降り!? )
 だったら、下で待機してたほうがいいかなっ? ……ドキドキで心の中が饒舌になる。
(しかも若い! から2ポイント確定っ! )
 と、少女が手摺に上がろうとしたのか両手をついて力を込めた瞬間、
(っ? )
 少女と目が合った気がし、咄嗟に逸らすマフマフ。見えていないはずと思いつつ。
 社内報越しに少女を窺うマフマフを、少女は右足を手摺にのせるまでの姿勢で動きを止め、ジー……ッと見つめてきた。
(…もしかして、俺のこと見えてる……? …となると、3ポイント……っ! )
 高まる期待。
(早く、早くー)
 変わらず社内報に隠れ気味にソワソワして待つマフマフだったが、少女は溜息をひとつ。手摺を屋上側へ降り、ドアを入って行ってしまった。
 マフマフはガッカリ。
(…何だ、飛び降りないの……? )



「のーおーぉえー♪ 」
 教室前側の出入口外側で溜まって談笑していた、屋上の少女と揃いのセーラー服を着た3人の少女のうち1人が、屋上から戻った少女が教室へ入るべく彼女らの前に差し掛かったところへ、農兵節の旋律で歌う。
「のえるです」
 低く短く呟きながら、彼女らの前を通過しようとする屋上少女。
 屋上少女が自分の前を通るのを見計らったように、3人のうち最も教室に近い位置にいた少女が、スッと足を出した。
 引っ掛かり、派手めに転ぶ屋上少女。
 プークスクスと心の底から愉快そうに笑う3人の少女。
 無暗に次を探すよりはと暫く屋上少女をマークすることにし、後ろをついて来ていたマフマフは、溜息。
(…ああホント、こういうの嫌だわ……)
「のーおーぉえー」「のえるです」のやりとりの意味は分からないが、双方の表情の明暗の差で状況の察しはつく。
(さっき飛び降りようとしてた原因って、これ……? )
 そこへチャイム。
 背後から、
「ほら、お前ら席につけ」
 男性の声。
 3人の少女たちは楽しげなまま、はーいと返事し教室内へ。
 取り残された屋上少女に、
「大丈夫か? 」
 声の主である、教師と思われる20代後半くらいの男性は、身を屈め、手を差し出す。
 少女は伸べられた手を無視し、自力で静かに立ち上がって教室へ入り、窓際後ろから2番目の低俗な落書きだらけの席についた。
 すぐ後ろを入って来た男性は黒板と教卓の間で足を止め、生徒たちと向かい合う形で立ち、
「日直は青木だったな」
言って、
「号令」
屋上少女の席の列先頭の学ラン少年に視線を送る。
「きりーつ、れーい、ちゃくせーき」
 授業の開始を受けて屋上少女が机の上に出したノートの表紙に書かれた名前は「井上 乃絵瑠」。
 「乃絵瑠」は「のえる」と読むのだろうか?
 だとしたら先程の「のーおーぉえー」「のえるです」は、
(…名前をイジられてたのか……)
 屋上少女・井上乃絵瑠の後ろの、カッターのようなもので切りつけた跡と落書きを消した痕跡で汚れた机の上に花瓶に生けられた美しい花という不自然な組み合わせの席は、授業が始まっても空席のままだったが、そこに座ることは憚られ、マフマフは、開け放した窓の辺の造り付けの棚の上に、井上の横顔を見ながら腰掛けた。
(別に何かに腰掛ける必要も無いんだけど……座る格好になるだけだし……。ただ、授業中だから何となく……)
 井上が一度、チラッとマフマフのほうを見、非常に嫌そうな顔をしてから視線を前方の黒板へ。
(やっぱり……! 絶対、俺のこと見えてるっ! )

(…学校って、変わらないな……)
 少しの懐かしさと共に、マフマフは授業中の教室で過ごす。
 プリントを配り始めた男性教師が、マフマフのいる窓のほうを気にし、
「風が強いな。伊藤、窓閉めて」
 井上の前の席の少女が面倒くさげに立ち上がり、バンッ!
 勢いよく閉めた。
 想定外の乱暴さ加減に特に何の影響も無いにもかかわらず思わず飛び退いたマフマフを、井上は冷たく一瞥。
(ほら! 絶対見えてるって! )

 
                *


(ほんと変わらないな! 学校って! )
 井上の隣に立って聞いているだけで、マフマフは腹が立って腹が立って……。
 終礼後の人けの無くなった教室。昼休みの終わりに井上に伸べた手を無視された男性教師はクラス担任でもあったようで、終礼を担当後、彼女を呼び止めた。「お前、イジメに遭ってるのか? 」と。
(……見りゃ分かるでしょ。俺は出逢って10分経った頃には、もう知ってたよ。)
 井上は黙っている。
「名前をからかわれること、どう考えてるんだ? 」
 これには井上、ボソッと、
「…誰のせいだよ……」
 マフマフは、そういうことかと納得。
(…こんな若い子が、よく農兵節なんて知ってるな、って、そこだけは感心しちゃってたんだけど……)
 以前にこの教師が調子に乗って生徒たちの笑いを取るため井上を犠牲にしたのだと。
 マフマフの耳が良いのか教師の耳が悪いのか、あるいは都合の悪いことは聞こえない都合の良い耳をしているのか、
「ん? 何だ? 」
教師は軽く聞き返し、井上の「何でもありません」を引き出しておいてから、
「嫌がらせをされるのは、お前も悪いんだぞ? 」
(…は……? 何、言ってるの? コイツ……。
 イジメなんて、する側が100%悪いに決まってるのに……。1世紀前の考え方でしょ、それ。……俺の中学・高校時代にも、まだ一定数いたけど。未だに、そんなふうに考えるヤツいるんだ……。
 そう考えてなかったとしても、よくある言い易いほうに言って済ますやつね。あー、嫌だわ。嫌いだわ。
 この子の態度が強いせいも多分あるけど、さり気なく「イジメ」から「嫌がらせ」に言葉をすり替えてるし……)
 井上は、ギリッと歯噛み。低く低く、呻くように、
「…植野さんにも、そう言ったんですか……? 」
(…うえのさん……? )
 ちょっとだけ考え、マフマフは気づいた。
(この子の前の席が「いとう」さん。この子は「井上」。同じ列の一番前の席の子が「あおき」。
 …花が飾られてる席の……? )
 教師は落ち着いた声と表情で真面目に言い放つ。
「話を逸らすな。植野は関係無いだろう? 今はお前の話をしているんだ」
(いやいやいやいや! 話を逸らしてるのは、お前のほうだからっ! )
 小さく息を吐き、井上、
「私のことこそ関係無いです。暇じゃないので帰ります」
 言って、出入口へ。
 ついて行くマフマフ。
「イジメられては、いないんだな? 」
 教師が声だけで追う。
 井上は無言で教室を出た。
 晴れてイジメは無かったこととなった。
(…まあ、先生も仕事だからね……)



 校舎を出、校庭を抜けて校門を出たところで一旦、足を止め、井上は、ずっと自分の斜め後ろをついて来ていたマフマフを、然も迷惑そうに見、直後、ダッ。
 脱兎の如く駆け出した。
「あっ! 」
 思わず声を漏らし、追いかけるマフマフ。
(…なんか今日、追いかけてばっかだな……)
 校門が面している大通りの広い歩道をスピードを落とさず器用に人波を縫うようにして走る井上。
 マフマフも、自分の体に他人を通すことを嫌い、避けて走る。
 50メートルほど行ったところで、
(…あれ……? ちょっと待って……? どこ……? )
 マフマフは井上を見失い、キョロキョロ。
 真横にあった車の通れない路地の入口の奥に、その後ろ姿。
 が、角を曲がったため、すぐにまた姿が消えた。
 自らも急いで路地を入るマフマフ。突き当たったT字を右へ行った瞬間を見れていたため、右へ。
 視界に現れる背中。途端に角でまた消える。
 それを2度3度、4度5度、繰り返すうち、再びのT字で完全に見失った。
(…どっちへ行った……? )
 まるで迷路のよう。
 途方に暮れかけたマフマフだったが、
(……。…あ……。馬鹿だな、俺。上から見ればいいじゃん)
気づいて宙へ。
 井上は、もうだいぶ離れた所にいた。角を曲がる時も全く速度を緩めず、分かれ道も一切の迷いが無い。
(…速い……。慣れた道なんだろうな……)
 マフマフは宙をショートカット。井上を斜め頭上から見下ろした。
 気配でも感じたか、井上、バッとマフマフを振り仰ぐ。
 一瞬固まった。が、即復活、走り出した。
 路地は間もなく終点。見覚えのある、マフマフが学校の屋上へ行く前に歩いていた住宅街の道路に繋がっている。
 路地出口から飛び出す井上。
 そこへ、
(っ! )
 猛スピードで突っ込んで来るトラック。
 マフマフは瞬時に意識を集中し、井上に手を伸ばして掴み寄せ胸の中へ包んで、トラック前面スレスレを横切る形で路地出口とは反対の道路隅を目掛けて飛んだ。
 しかし、この勢いのまま道路や塀に接触すれば、その衝撃はダイレクトに井上へいってしまうので、頑張って急ブレーキ。宙に踏み止まって勢いを出来る限り殺し、殺しきれなかった分は、着地を寝転ぶ姿勢にして緩和する。
 トラックも急ブレーキ。慌てた様子で運転手が降りてきた。
 屋上では飛び降りようとしていたにもかかわらず、怖かったのか、井上はマフマフの上に寝そべった状態で呆然としている。
「大丈夫ですかっ? 」
 駆け寄って来た運転手に、井上はハッとした様子。
 身を起こし、目の前に建つマンションのエントランスへと走って、中へ。
 起き上がり走る井上を見、安心したようにホッと息を吐いて、運転手は、エントランスを入るところまで見届けてから、トラックへ乗り込み、去って行った。
 マフマフは、
(…危なかったー……)
 上半身起き上がりつつ、自身が裏返しになる錯覚を起こすくらいの深く大きな安堵の吐息。
 マフマフから逃げて事故に遭いそうになった井上が、怪我をしたり、肉体の死にまで至ってしまったりしたら、マフマフが危害を加えた判定になってしまう。
(大変なことになるとこだった……)
 

第3話「義体の紳士」


 井上の入って行ったエントランスを入ると、既に彼女の姿は無かった。
 郵便受けの名字で、
(…807号室か……)
部屋番号を確認し、
(それぞれの階に1~7号室だから角部屋だな……。外から見えるかな……? )
 正直少し面白がってしまっていた部分もあり井上を刺激してしまったと反省して、距離を置いて窓の外から、拾った社内報の続きでも読みながら見ていようと、上着のポケットに無理に突っ込んであったのを取り出しつつ外へ。
 出てすぐ、
「こんにちは」
 キチッとした身なりをした30代前半くらいの長身の紳士が声を掛けてきた。
(あ、この人……)
 社内報を落とした人であると、すぐに気づく。
「拾ってくれたんだね、ありがとう。僕の宝物なんだよ」
 差し出された手のひらに条件反射的に社内報を渡しながら、マフマフ、
(…やっぱり、肉体あるように見えるよな……)
 ネギの先端の覗くマイバッグを提げた、このマンションの住人と思われる中年女性が、紳士だけをジロジロ訝しげに見、2人の横を通過してエントランスを入って行く。
(…俺のことは見えなくて、この人だけが見えてる……? やっぱ、肉体がある……? )
 中年女性に気を取られ、指先が紳士の手に触れた。
「あ、ごめんなさ……」
 これまた条件反射的に謝ろうとして、あれ……?
(無意識で触れた……。でも、俺のことが見えてない物界の人から見えてる……)
 どういうこと……? と、ちょっとだけ考え、
(義体か……! この人、義体なんだ……っ! )
 実物を見るのは初めて。
(…すごい……! 本物の肉体と区別つかない……! 
 髪の毛は生え際からちゃんとしてるし、眼球の濡れ具合とか細かく再現されてる……! 今うっかり触っちゃったけど、肌の質感も。気のせいか体温まで感じたんだけど……! )
 思わず全身を舐めまわすように見てしまっているマフマフに、紳士は苦笑。
「ボクに興味がある? その上着と獣耳、キミは死神魂卍の子だね? 拾ってくれたお礼に、時間があるなら少し話そうか」
 そして自分の家へと誘う。ここでは、他の人からはボクが独り言を言っている不審者に見えてしまうからね、と。
(…19時のお迎えギリギリまで、あの子を見てようと思ったんだけど……。だって3ポイントほぼ確定だから……。
 ああ、でも1日にそう何度もしようとしないかな……? )
 そんなことを考えていて、紳士の申し出への反応が鈍くなったマフマフ。
 紳士は、
「怪しいオジサンではないから怖がらないで」
 優しく優しく言って、マフマフから受け取っったばかりの社内報を広げ、未読の写真付きの記事を指さして見せる。
「ボクは杉田一彦(すぎた かずひこ)。ほら、この記事の写真に載ってる、コード7566・通称セフィロス。キミの先輩だよ。もう退職してるけどね」
(…いや、怪しんでたわけじゃ……)



 紳士・杉田一彦宅は、井上宅のマンションと同じ通りにあった。何ら変わったところの無い、2階建ての一軒家。
「ただいま」
 言いながら玄関の引き戸を開けた杉田。玄関内は薄暗い。
 パチンとスイッチを押す音。暖色の明かりが点る。
「お帰りなさい」
 20代半ばくらいの、全身を薄っすらと黒い煙状のもので覆われた上品な雰囲気を持つ女性が出迎えた。
(…中間域……? )
 杉田はもう一度、女性へ向けて、ただいま。
「お客様を連れて来たよ」
 言ってから、マフマフを振り返り、
「どうぞ、入って」
 お邪魔します、と入ると、湿気を帯びた少し冷んやりした空気。下駄箱の上には日本人形と、木製の台座に置かれた紫水晶原石が飾られていた。
(…なんか、懐かしい雰囲気だな……。ザ・おばあちゃんち、って言うか……)
「紹介するよ。ボクの妻の亜希子(あきこ)さん」
 それを受け、マフマフと杉田の妻・亜希子は、互いに、こんにちはーを交わす。
(…奥さん、か……)
 続けて杉田、亜希子に向け、
「ボクの宝物の新聞あるでしょ? あれを落としてしまってね、彼が拾ってくれたんだ。名前は……」
そこまででマフマフを見、
「ごめん、まだ聞いてなかったね」
 答えに詰まるマフマフ。
 答えられない。そういう規則。
 それは杉田の在籍当時から変わらないようで、
「そうか。答えられないよね?
 現役の間は悪意を持った中間域に本名を知られると危険な場合があるから」
 そこで、あ、と言葉を途切れさせる杉田。
「そのような規則があるというだけのことで、亜希子さんのことではないよ」
 それを聞いてマフマフも、そうか、と、
(…「中間域」って一括りじゃなくて、悪意を持った中間域だけを指す名詞があればいいのにな……。自分のことを言ってるわけじゃないって分かってても、きっと、気持ちのいいもんじゃないから……)
「大丈夫です。分かっていますよ」
 亜希子は心の底からのものと思える柔らかく自然な穏やかな笑みで返した。
 ホッとして、マフマフは口を開く。
「…あの……。通称名なら……。マフマフです」
 途端に気不味そうにマフマフから視線を逸らす杉田夫妻。
(……? 何か俺、悪いこと言ったかな‥‥‥? )
 ややして杉田、
「聞いてはいけないことを聞いてしまったね。すまなかった」
(‥‥‥? 聞いてはいけないこと、って‥‥‥? )
「中間域に本名を知られることを防ぐために、現役の間はコード番号に無理に当てはめた変な通称で呼ばれるのだよね。
 ‥‥‥分かるよ。ボクも自分の通称名があまり好きではなかったから‥‥‥。マフマフなどと、そのような名前の人、いないからね‥‥‥」
腫れ物に触るような態度で慰めにかかった。
(…別に、気にしてなかったんだけどな‥‥‥。それに、マフマフはともかく、セフィロスはカッコイイと思うんだけど‥‥‥)

「キミは、義体に興味があるの? 」
 やはりおばあちゃんちな雰囲気のリビングへとマフマフを通し、亜希子が淹れてくれたばかりの茶を手振りで勧めつつ、杉田。
 マフマフは、ありがとうございます、と、ひと口いただいてから頷き、
「物界の人で会って話をしたい人がいて、心体では彼には僕が見えないし、仮に何かの加減で見えたとしても、彼は現在の外見年齢の僕を知らないので僕だと分からないだろうから、義体を手に入れて、彼と知り合って以降の外見年齢にカスタマイズして会いに行きたいんです。
 死神魂卍に入社したのは、魂getポイントの景品に義体があることを知って、そのほうが近道かなって思ったからで、正直そのためだけなんです。義体は高額すぎるので‥‥‥」
(‥‥‥って、杉田さんの頃にもあったかな? 魂getポイント。説明必要かな‥‥‥? )
 そう思い、聞いてみると、
「ああ、あったよ。魂getポイント。ボクもそれで義体を手に入れた」
(そうなんだ‥‥‥! )
 過去に1人だけ、ポイントで義体を手に入れた人がいると聞いていたが、この人がそうだったのか、と、杉田に対して更に興味をかきたてられ、この人になら相談に乗ってもらえるかもしれない、と遠慮がちに続ける。
「…あの、実はとても急いでいて‥‥‥。彼、もう105歳なので、いつ肉体の死を迎えても、おかしくないので‥‥‥。心界へ来られてしまってから捜し出すのは困難だし、運良く時間帯が合ってくれでもしなければ、うちの会社に回ってくるリストに載るようなタイプでもないので‥‥‥」
「魂getポイントは近道と言うか、会いに行くのに義体でと考えるのであれば、キミにとっては多分一択だよ。
 あくまでもボクの頃の話なら、だけど。当該ポイントを現金換算した金額では買えなかったからね。
 死神魂卍の社長と義体を作ってる会社の社長が友達で、特別に安く譲ってもらえたのだそうだよ。実際に欲しがる人などいないだろうと両社長とも高を括っていたのだろうな。義体など本来金持ちが道楽で使う物でしかないから、死神魂卍で働くような人たちには無関係と、景品に箔をつける飾りのようなつもりで‥‥‥。
 ボクが10万ポイントを貯めて義体を下さいと言った時は、露骨に嫌な顔をされたよ」
 杉田は苦笑。
「でも、すぐに態度を改めて、大々的に贈呈式まで執り行ってくれた。さっきキミに見せた社内報の記事は、その時のものだよ。皆のヤル気を煽るお役に立てられたのかな?
 今でもボクの頃と変わらず10万ポイント、1億円分相当の景品なの? ご友人のほうの会社への負担が大きいだろうから実現する者が現れてなお景品として義体が並んでいることを知って驚いているのだけど‥‥‥」
「あ、はい。変わらないです」
 頷くマフマフに、杉田は更に質問を重ねる。
「今のところ何ポイント貯まっているの? 貯め始めてからの期間は? 」
「貯め始めて約半年で804ポイントです」
 杉田は、ん-‥‥‥と難しい顔。
「普通に考えたらスゴイ数字ではあるけど、そのペースだと10万ポイント貯まるまで60年くらいかかるよね? 」
「はい。僕は瞬間移動が出来ないので、出来るようになったらだいぶ違うかな、とは思うんですけど」
「瞬間移動か‥‥‥。あれは完全に適性の問題だからね。
 適性のある人は、やろうと思っただけで出来るし、無い人は、訓練次第で習得出来ないわけではないけど、なかなかに難しい」
(…イロハさんは、きっと適性のある人なんだろうな‥‥‥。だって、教えるの下手すぎる‥‥‥)
 先輩に質問して「ポーンッ! て感じです」と返されたと話すと、杉田、ちょっと笑う。
「出来てしまえば、その『ポーンッ! 』は納得なんだけど‥‥‥。
 ボクから助言するとしたら、誰かキミが全幅の信頼を寄せる、他の人を連れて移動出来るタイプの瞬間移動を出来る人に手伝ってもらうこと、かな。
 実はボクも習得に苦労したクチでね。今にして思うと、多分、恐怖心なんかが邪魔をしていたのかな、って‥‥‥。
 キミは、瞬間移動を体験したことはある? 」
「はい、1度だけ。肉体の死を迎えた時に、駅まで。
 当時は瞬間移動って認識はしてなかったですが‥‥‥」
 そうだよね、と続ける杉田。
「先ずは何回か、手伝ってくれる人にキミを連れて瞬間移動をしてもらって瞬間移動というものに慣れて、それから、戻って来れなくなった場合に迎えに来てもらえる約束をした上で挑戦してみるといいかもしれないよ」
(…確かに、怖がってるっていうのはあるかも‥‥‥。だとしたら、杉田さんの言う方法はとてもいいと思う。…でも、難しいな‥‥‥。全幅の信頼を寄せてる人、なんて‥‥‥)
「あとは、業務のやり方だよね。
 お迎えは1人ずつしか出来ないけど、ボクの場合、心界への移動は可能な限り複数人を同時に連れて行くようにしてた。2人目以降を前の人を連れた状態でお迎えする形で。
 特に連れて行こうにも行けない交通手段の無い夜間の分とかさ、1人では時間がもったいないでしょ? 」
(そうか! 1回に1人ずつしか連れてっちゃダメなんて規則は無いし! 
 …だけど‥‥‥)
 気になって、マフマフは口に出す。
「危なくなかったんですか? 社内報に書いてありましたけど、杉田さんの頃の心界物界間の移動方法って、渡し舟ですよね? 」
 自分だったら1人を連れて行くのも心配、と。
「いや、基本は電車だよ。
 当時はとにかく自死をする人が多かったために電車移動だけでは追いつかなくて、危険が伴うという理由で廃止された、かつての交通手段である渡し舟による三途の渡河が、『特殊案内員と自死者のみ乗船可。但し特殊案内員については有事に於いて自身の安全を最優先すること』を条件に限定的に許可されたんだ。
 ボクは単身移動時には舟を使うこともあったけど、1人でも連れていたら余分に待つことになったとしても電車で移動するようにしていた。急がば回れというやつだよ。安全を重視したほうが結局のところ効率が良いからね」
 杉田の答えに納得して頷きつつ、マフマフ、
(…来月分のお迎えの予定を組むのに、夜間の分を、先ずは2人ずつとか組んでみようかな‥‥‥)


                *


 19時にお迎えをした心体を心界へと送り届け、3件の最終宣告と翌0時20分のお迎えのため終電に飛び乗って再び物界へ来たマフマフは、最終宣告をする人たちが眠るであろう時間までまだあるため、昼間に出会った自死志願者・井上の様子を確認するべく、井上宅のあるマンションへ。エントランス前に立ち、上層階を仰ぐ。
(807号室、だったよね‥‥‥? )
 外壁に沿って窓の数を数えながら上昇。
 8まで数えたところで止まり、1~7号室のうちの7号室なので、とりあえず近いほうの角部屋の窓を覗こうとするが、やはり夜なのでカーテンが閉まっており、しかも、もう9時間も前に予想していた、ひと雨が、今頃になってやって来ていて、当然マフマフ自身には何の影響も無いが、そのためにカーテンの僅かな隙間まで水滴で埋められてしまっているため、やむなく室内へ。
 すると、ソファで丸くなっていた、この家のペットと思われる猫が、ピクンと起き上がりガン見してきた。他所でもよくある現象。
(俺が物界で、まだ肉体を持って元気に暮らしてた頃に飼ってた猫たちも、時々、何も無い壁をジーッと見てることがあったけど、きっと、こういうことだったんだろうな‥‥‥。何も無いわけじゃなくて、誰かいたんだ‥‥‥。
 うん、そう言えば、その頃にも何となくそんな気はしてて、そういうの怖いから頼むからやめてくれって思ってたっけ‥‥‥)
 落ちついた雰囲気の部屋。女子高生である井上の部屋には思えなかったことと、猫以外誰もいなかったので、隣の部屋へと移動するマフマフ。
 その部屋に、井上はいた。集中した様子で学習机に向かっている。
(…よかった、まだ生きてた‥‥‥。
 まあ、仮に逃したとしても惜しくないような話を聞けはしたけど‥‥‥)

 杉田とは、お迎えの時間間際まで話をしていた。
 瞬間移動の練習の仕方。効率的な業務のこなし方のひとつとして複数人を同時に心界へ連れて行くこと。
 他にも、同じく業務の効率化の話で、最終宣告を複数同時に行う方法も教えてもらえた。‥‥‥これは、初めてでは逆に余計に時間がかかるかも知れないため、次に今日ほどでなくとも長い空き時間のある時に、早速試そうと考えている。
 そういったポイントを早く貯める術の話をする一方で、どれだけ業務の効率化を図っても、加えて瞬間移動を習得出来たとしても、友人が肉体の死を迎えるまでに10万ポイントを貯めるのは非常に困難であることが容易に想像つくと、目的は話をすることなのだから義体にこだわらずに何か別の方法、例えば夢の中での会話であれば、これまで最終宣告の際にやってきたことと同じことをするだけなので、すぐにでも出来るが、それではダメなのか? ポイントを貯めることは続けつつ、少し考えてみたほうがよいのでは。とのアドバイスも受けた。
 それから特に何の役に立つ話でもないが、昔の社内報で使用されていた、現在では使われていない語「人間界」と「魂」について。結論から言えば、昔も現在も変わらず物界は「物界」であり心体も「心体」。「人間界」というのは、良くないことだが、後々心界へ行く者も迷い中間域となってしまう者も罪を犯し俗に言う地獄行きとなる者も混在している肉体を持つ者を自分たち心界に暮らす者より下の者であると軽んじて「人間」という蔑称で呼ぶ風潮が当時はあり、その者たちの暮らす世界という意味で生まれた語。「魂」は心体の言い換え。現在では「心体」を使用することが多いが「魂」のほうが古くから存在する語であり、当時の社内報の記者は好んで「魂」のほうを採用していた‥‥‥ということらしい。ちなみに、社内報で使われている心体の意の「魂」は魂getポイントの「魂」ではなく、魂getポイントの「魂」は社名にくっついている「魂」と同じ意。「気構え、とでも言おうか、『職人魂』とか『芸人魂』の『魂』と一緒と言えば分かり易いかな? 」と杉田は説明していた。
 あとは、「1人週当たり平均10個」のスゴさについて。「フィギュアスケートのジャンプなんかが良い例だけど、昔スゴイと言われていたものが、選手の方々の努力や、同じ努力をするのでもお手本があればやり易いだろうし、他にも、もしかしたら関係する様々なものの進歩とか、幾つもの要因で、どんどん当たり前になっていくよね? それと同じだよ」。 

 と、前傾気味だった井上が小さく息を吐きながら身を起こし、手にしていたシャープペンを置く。 
 代わりに机の隅のペン立てから太目のカッターナイフを取り、キリキリと刃を出した。
 数秒、ただそれを見つめる井上。
(…え、もしかして、今‥‥‥? )
 期待するマフマフだったが、井上は徐に立ち上がると、マフマフのほうを向きざま、
(っ! )
 刃側を先にして勢いよくマフマフへと投げつけてきた。
 ダンッ!
 マフマフの体を通過し、その真後ろの壁へと見事に突き刺さるカッターナイフ。
(あっぶな‥‥‥くはないけど‥‥‥。…ビックリしたぁ‥‥‥)